2021年2月27日(土)
【フルーツ】
  
あと1週間もしないうちに2月が終わる。
と、数日前に書き始めたが、どうやら明日で終わるようで、感慨深い。

だんだん暖かくなってきたが、ストーブの設定温度は真冬と変わらず18度にしているので、ストーブが大人しくなり、部屋が大変静かになった。

最近、部屋にリンゴを1つ置いている。
オールフリーの空き缶の上に、3か月ほどリンゴを1つ置いている。
つまり、オールフリーの空き缶も3か月ほど置いていることになる。
実はオールフリーの空き缶は1つどころではない。

リンゴの話ね。
最初は特に何か理由があったわけではなく、食べるのを先延ばしにしていただけだったのだが、2週間ほど放置した頃から、置いておいたらどうなるのかが楽しみになってきて、現在に至る。

良い香りがするとか、見栄えを良くするために置いているわけではないです。
もしそうなら、納豆のパックは食べ終わったらすぐ捨てて袋の口を縛る人間であったろうし、万年床の横のテーブルの上に多様な調味料と空き缶が並んでいることはないですし。

1日1回は手に取って、揉んでみたり、香ったりしている。皮は乾いて、ざらっとしていて、ちょっと柔らかいが、香りはいつものリンゴである。
日々ちょっと柔らかさが増してきていて、これはちょっと、人肌の弾力と思えないでもないものと思うこともある。
老婆の手の甲のような感じだと思う。
最近めったにない、人肌を感じる瞬間である。

そう言えば、僕は最近買い物の度にみかんを買っており、夕飯の後に日々平均して2個ほど食べているのだが、それをリンゴはどういう気持ちで見ているのか、大変気になるところではある。

私は社会人で、これは世相の記録であるので、最近話題のニュースを元に社会派なことを書こうと思う。
あの、オリンピックの偉い人が、女性は話が長いと発言して、辞めたお話である。
振り返ると、少なくとも僕が小学生の頃には「男女平等の世の中が必要である」というお話は既にかなり一般的で、正論であって、至上の命令であるというお話になっていたはずである。「今や男女平等の世の中」と言っている人も、既に多くいたと思う。
物心ついたときにはそんな社会であったので、私も、自分は男女平等の申し子であるような気持ちで生きてきたし、男女が平等であることに何ら疑問を抱かずに生きてきたし、母校は「ジェンダー」という言葉を掲げた元女子高であった。今思えば、ジェンダーだけを掲げてどうしようと言うのかと思うが、おそらくその前後に何かしらの言葉が補われていたのを僕が覚えていない。

まあそれで、私自身は、自分が男女平等主義者であると思っていること自体は、私が男女平等主義者であることが真実かどうかを空き缶の横に置いておけば、間違いないのであるが、男女を抜きにしても、そもそも人が平等で均等であるべきというところを体現できている自信が皆無である。

結局のところ、お恥ずかしい話、私は他人から何かしらを搾取しながら生きているという自覚が、ある。大人にしわ寄せを食らわせて楽をしたり、努力が空回りしている人をやゆして面白がったり、赤ちゃんに責任転嫁したりしてどうにかここまで生き延びた感がある。
長いものがあれば条件反射で巻かれ、不正があれば眼鏡を外し、舌は4枚あるし、不器用さを前面に押し出してハードルを下げ、権利があれば整合性はどうあれ手を離さないタイプの人物に、やや近いのである。

私は賢いと言っているのではなくて、たまたま、たまたまそういう「層」に入っているのかもしれない、というお話である。

そうなると、やはり、実のところ、後ろめたさがあって、どうしたって私が悠々自適な生活(まだ全く手に入っていない)を送る上で弱い立場にある人から搾取をしているのは間違いがないし、そうなればどう考えたってその層には比較的女性が多いであろうことは、社会情勢を見れば明らかではないかと、後ろめたいのである。

そう、大変後ろめたい。
積極的に直接的な差別などしていないと言えそうだと思いつつ、各種差別が話題になる度に、そこそこ後ろめたい気持ちになるのである。
ただし、そこで後ろめたさを感じているだけでちょっと満足している自分もいるので、これは、大変やっかいな話なのである。

本日、2個目のみかんをいただくことにする。
ちなみに私は、みかんは食べる前に揉む派である。
それで、食べ終わってからリンゴを揉む。
これもやはり、かなり後ろめたい気持ちになる。
と、思っていたら、本日買ったみかんのうち、1個がかびているのを発見した。
後ろめたさがすっと消えました。ありがとうございます。



2/27^21:38
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